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起業家 ブログ パート2 本田宗一郎

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生い立ち[編集]

エピソード

  • 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水からを作ってと交換したりして「遊んで」いたという。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いつき、オートバイ研究が始まる[8]
  • 会社のハンコを藤沢武夫に預け経営も全て任せていた。本田は社印も実印も見たことがなく[9]、技術部門に集中し後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べている[10]。互いに「西落合」(本田の自宅のある地)、「六本木」(藤沢の自宅のある地)とざっくばらんに呼び合っていた。また両者は「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており身内を入社させなかった[11]。宗一郎は社名に個人の姓を付したことも後悔もしていた。
  • 経営難に陥ったときに藤沢の助言でマン島TTレースF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直した。出場宣言は藤沢によって書かれた[12]
  • 藤沢の死後、1989年に本田宗一郎が日本人として初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たした時に、本田は授賞式を終えて帰国したその足で藤沢邸に向かい、藤沢の位牌に受賞したメダルを架け「これは俺がもらったんじゃねえ。お前さんと二人でもらったんだ。これは二人のものだ」と語りかけた[13]
  • 従業員からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていたが、一方で共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」とも述べている。作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていた。しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということもあったという。また怒る際、「人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。その時はほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言ったとされる。[14]
  • 南青山の本社ビルを新築する際「万が一地震が起こったときに割れたガラス歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し全フロアにバルコニーがつけられたという。また藤沢も全く同じ指摘をしていたという。ちなみに、ビルの設計は、初代シビックのイメージに基づかれていたという。
  • 皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとしたが、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席した。本人曰く燕尾服を持っていなかったためそのような発言をしたとのことである[15]
  • 無類のの友釣り好きで、年に1度は多数の客を自宅に招き、鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていた。
  • 大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にバカらしい」と言い生涯所有はしなかった。
  • 差別を「諸悪の根源」とし、差別を徹底して嫌っていた。子供のころに、「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ことに気付いてからだという。「人種や家柄や学歴などで人間を判断することを、私は今日まで、徹底してやらなかった。」[16]
    • 三重県で開かれたある会議に参加した本田は、管理職の1人が松阪牛の料理店・和田金での昼食を提案したところ、「50人も一緒に食事できる部屋はあるのか」と問い、一部管理職以外の参加者が弁当を食べることを知ると、自分も弁当にすると言った[17][18][19]
  • 邱永漢渡部昇一『アジア共円圏の時代』によると、作家・経済評論家の邱永漢に、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを問われた本田は「良いほうを“台湾”、悪いほうを“韓国”」と答えたという。韓国について、『「どうしてですか?」と尋ねると、「向こうへ行って、オートバイを作るのを教えた。それで、一通りできるようになったら、『株を全部買いますから、帰ってくれ』と言われた。『どうしましょうか』と下の者が聞いてきたから、『そんなことを言われるところでやることはねえよ』と言って、金を返してもらった。その翌日に朴正煕が殺されたんだ」とおっしゃった』[20]。なお、本田がオートバイを作るのを教えたとされる台湾および韓国のメーカーは本書では明らかにされていない。ちなみに朴正煕が殺された1979年当時、ホンダが韓国で提携していたのは起亜技研(起亜グループの二輪車部門)であり、実際にホンダは1975年より続いた起亜技研との合弁事業を1979年に解消して資本撤退している[21]が、一方で技術供与は継続しており、起亜のバイクが「KIA Honda」ブランドで販売されていた。また、1981年に起亜技研が大林グループ入りして大林自動車となった際には大林自動車にも技術供与を行い、大林のバイクが「DAELIM Honda」ブランドで販売されていた[22][23]。ホンダが起亜に『帰ってくれ』と言われたのが事実かどうか不明だが、少なくとも起亜技研・大林自動車とは合弁解消以後も良好な関係を持っており、ホンダが起亜と提携した1975年以降で「Honda」ブランドが韓国から撤退したことはない。
  • また、『韓国側は、本田とのライセンス契約を一方的に解消し、エンジンからデザインまで全くのコピー品を“韓国ブランド”として販売を始め、宗一郎は周囲に「韓国とは絶対に関わるな」と言いつけた』と言うエピソードがネット上で流布しているが、ソースが不明である上に、本田の存命中に起亜および大林がホンダとの提携を解消したことはなく、事実に反する。なお、ホンダとの提携を解消する2000年代以前の大林のバイクはエンジンからデザインまでホンダの全くのコピー品が多いが、当然ながらライセンス契約を結んで正式に技術供与を受けているからであり、車体には「HONDA」と「Daelim」双方のエンブレムがある。2001年には大林自動車の元社長を招聘してホンダコリアが設立され[24]、2004年に大林との提携を解消して「Honda」ブランドで韓国市場に直接参入するなど、1961年に韓国初のバイク「KIA Honda C100」を発売して以来、本田宗一郎の生前も没後もホンダと韓国の関わりは密接であり続けている。
  • また別の著書による社長退任のエピソードとして、エンジンを水冷か空冷かのどちらにするかという論争がホンダの中で巻き起こった頃、若い人は公害規制をクリアする意味で水冷だと主張したのに対し、本田は「砂漠の真ん中でエンストした時に水なんかあるか! 空冷だ」と主張したという。実際に一時は本田の意見が通りホンダ・1300の発売に至っているが、同時にこれは久米是志の出社拒否騒動に代表される若手エンジニアの反発を招いた(ホンダ・RA302及びホンダ・1300#本田宗一郎と空冷も参照のこと)。しかし様々なテストの結果、最終的に水冷の方が優れている事が分かり、ホンダは水冷エンジン路線に転換する。その時に本田は「自分には技術が分からなくなったのかもしれない」と思い、社長を退いたという[25]。ホンダF1チーム監督であった中村良夫は、「結局、本田社長はもっとも基本的な熱力学の物理法則を理解していないので、いくらいっても論争がかみ合わないのです」「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と語っている。
  • このほか、技術者としては2ストロークエンジンをあまり好まなかったことが伝えられる[26]ホンダ・スーパーカブの開発時、当時は50ccエンジンであれば2ストロークが一般的だったところ、あえて4ストロークエンジンを開発し採用した[27]
  • 社長退職後、全国のHondaディーラー店を御礼参りする。その際、整備担当が握手を求めたが、自分の手が油だらけなことに気がつき、洗いに行こうとする。しかし、本田は自らも技術者であったため、油まみれの手での握手に喜んで応じた。[28]
  • 意外に思われるが、岩倉信弥によれば高級品が大好きで、時計などはブランド品の良いものを好んでいたという。しかし、これは、「一流であるものを知っておく」という独自論からであり、実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といったことも提言し、アコードメルセデス・ベンツの乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証するなどでも実践していた。
  • 逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩いた。そして「満足だった」という言葉を遺した。弔問時に遺族からそのエピソードを聞いた親友の井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したという[29]
  • その井深大とは、共に技術者出身でありシンパシーもあって、出会ってから自然と親友となった。そして、「互いの頼み事は断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたという。また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れず、ある時に井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打っていたが、寸前に宗一郎が帰らぬ人となり、その手紙を送ることは叶わなかった[29]
  • 三ない運動に関して、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と発言し、終始批判的なスタンスを取り続けた[30]。この考えは後の本田首脳陣にも引き継がれ、徳島県生光学園中学校・高等学校と共同実施する高校生への安全教習や、元会長の池忠彦による運動を推進する自治体への批判発言という形で具現化されている。
  • 「自動車会社の創業者の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という遺言を遺し、社葬は行われなかった

引用元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E5%AE%97%E4%B8%80%E9%83%8E

日本人はこの方を忘れては行けないと思います。

もの作りと言ったらこの方

本田宗一郎」ですね。

ホンダの創業者ですね。